音声メディアの社会性とサウンドスケープ~ヘッドフォンはなぜ不快か

音声メディアの社会性とサウンドスケープ~ヘッドフォンはなぜ不快か

2018-06-19 0 投稿者: guntou

はじめに

この記事では、voicyやradiko、携帯音楽プレーヤーやスマホなど、個人化するサウンドメディアについて、サウンドスケープという切り口でその社会性の一端を考察する。音声メディアについては、ぼくの大学での専攻の一分野であり、音楽とラジオは趣味でもあるので、何か視点を提示できると思う。

なぜ、他人のイヤホンの音漏れが気になるのか、なんで公共空間でのヘッドフォンが嫌な感じがするのか、音楽を聴いていると自分の世界に埋没できるのはなんなのか。その問いへの直接的な答えはこの記事では提示できないが、ヒントを垣間見ることができるのではないかと思う。

「サウンドスケープ」とは

「サウンドスケープ(soundscape)」という言葉がある。これは「ランドスケープ(landscape)=風景」からの造語で、音の風景、聴覚的景観と日本語では置き換えられる。この概念を提唱したのは、カナダの作曲家、音楽教育者であるマリー・シェーファー(Raymond Marry Schafer 1933-)である。今日「サウンドスケープ」を切り口に語られる隣接分野は数多い。環境音楽やサウンドアート、サウンドデザインなどはもちろんのこと、自然音の保護や騒音という側面からは都市論、まちづくり、地域政策、はたまた音声・音楽教育にまで領域は拡大していく。

そのようなサウンドスケープ論が繰り広げられている中で、ここではポータブル音声機器についてサウンドスケープからの視点で考えてみたい。ここでいうポータブル音声機器とは、いわゆるデジタルオーディオプレイヤー、製品名をあげるとすれば「ウォークマン」「iPod」や、スマホ、それに類する音声再生機器のことである。

ポータブル音声機器に関しては、機器ごとに付帯する音楽配信ビジネスや、機器そのものの革新性への技術的機能のアップデート、もしくはマナー問題などの切り口から語られることが多い。だが、今回着目したいのは、マナー云々というより、街中でヘッドフォンを耳に挿して任意の音を聴く行為が、その人にとってのサウンドスケープや音風景を、形成しているのかという視点である。

みんなが素の耳の状態であれば、その場にいる人々はおなじ環境音を聞いている。すなわち、同一のサウンドスケープ空間の中での共同体、コミュニティが生まれているはずである。そのコミュニティの広さは場合によりけりで、街中であったり、とある施設内であったり、電車内であったり、町の放送の届く範囲であったり、寺院の鐘の音の聞こえる範囲であったりと様々である。

ポータブル音声機器のもたらすサウンドスケープはどのような効果を生んでいるかを通じて、今我々を取り巻くメディア環境を理解するひとつの糸口にしたいとも思う。

サウンドスケープの種別

「サウンドスケープ」で語られる音の種別としてシェーファーは、

  • 「基調音(=Keynote Sound)」
  • 「信号音(=Sound Signal)」
  • 「標識音(=Soundmark)」

の3種類をあげている。

1つ目の基調音とは、あるサウンドスケープ環境において常に聞こえている、鳴っている音のことを指す。例えば、海辺の共同体では海から生じる波音や水音、現代の産業都市ならば工場や自動車の音などがこれに当たると言える。この基調音の特徴は、通常ならば意識的に知覚されないところにあり、視覚における図と地の関係においては地にあたるものと考えてよい。だが、知覚されることが少ないと言っても「基調」となる音であり、ある「場」におけるサウンドスケープ形成の中核を担っている存在だ。普段気にされるものではなくとも、いざその音が消えてしまえば違和感を感じるだろう。

2つ目の信号音とは、人の注意を引く音のことをいう。基調音と対比される関係にあり、視覚における図にあたるものである。ベル、汽笛、サイレン、など警告音などが信号音の代表である。信号音は、特別な時に聞こえるものである。発信源から、その音が届く範囲のコミュニティへ、なんらかのメッセージが載せられた音であると言えよう。

最後、3つ目の標識音は、「陸標(landmark)」から作られた造語である。ある共同体の人々にとっては重要で、かつ注意を向けられるその共同体特有の音のことを意味している。例をあげるならば、寺社や教会があるような地域では鐘の音、祭りがある場所ではそれに伴う祭囃子などが標識音である。標識音には、信号音のように特殊特別なメッセージが乗っているわけでもない。たとえば、鐘の音は時を告げるというメッセージ自体はたしかにあるが、周期的で鳴っていて当たり前であり、鐘の音に毎回毎回コミュニティの注意が向けられるわけではないだろう。その意味では、基調音と信号音の中間的な特性にもなりうるのが標識音のもつ意味であるともいえる。

 

さて、サウンドスケープ論における3つの音の種別をあげたわけだが、ここでひとつ注意しなければいけないのは、必ずしも音だけが議論の対象となっているわけではないということだ。「サウンドスケープ」は、ある「場」のありとあらゆる音を優劣の区別なく捉えることを重要にしているが、同時にその「場」の視覚環境(landscape)にも目を向けなければならない。

いくら、音声だけでさざ波の音を再現したとしても、そこにリアリティはない。良く録音されたものであれば、さざ波のサウンドとして認識はされるが、さざ波のサウンドスケープだとは知覚されないのである。人があるサウンドスケープを強く認識するには、音と視覚の両方がマッチしていることがポイントであるといえる。音と視覚が結びつけば、印象の強いサウンドスケープが認識されやすいということでもある。視覚環境があってこそのサウンドスケープであり、サウンドスケープの形成にはランドスケープも関わるということだ。同じ曲を聴くのであっても、自室で聞くのと街中で聞くのでは違った感覚であるというのは、多くの人に経験があるのではないだろうか。

基調音の上書きマスキング

3つの音の種別と、サウンドスケープにおける視覚。これらをもとに、ポータブル音声機器の場合を考えてみる。

街中で、ヘッドフォンやイヤホンを使い音楽を聴いているとしよう。その際いちばんマスキングされてしまうのは基調音である。車の排気音や、商店の呼び込みやBGM、人々の話声などは、聞く必然性のないどうでもいい音だ。仮にそれらの音声が聞こえなかったとしても、別段問題は生じない。

どうでもいい音を聞くぐらいなら、自分の好きな音を聞いていたいといのは極めて合理的な考えである。耳というのは、それ自体で音を遮断する機能はない。耳にまぶたはないのである。だが、現在はヘッドフォンイヤフォンを利用することで、容易に遮断機能を装備することができる。簡単に基調音の上書き、マスキングをすることが可能なのだといえる。

一方、信号音、標識音はそうとはいえない。とりわけ信号音に対しては、注意が向けられると断言してもいい。サイレンや警笛、誰かの警告などは、いくらヘッドフォンを着けていたとしても、無関心というわけにはいかない。場合によっては生死に関わりかねないこれらの音は、聞くべき音であり、聞こえているはずの音である。

ポータブル音声機器で音楽を聞くという行為は、すでにそこにある基調音を軽んじ、新たな基調音を自分でマスキングしているということである。その「場」の音として、元からあった基調音ではなく、自ら選んだ音を基調音としてサウンドスケープを形成しているのだ。サウンドスケープのワープをしていると言える。

サウンドスケープとランドスケープのずれ

ここで先程、サウンドスケープにおいては視覚の要素も重要である旨を述べたことを思い出してもらいたい。ポータブル音声機器を利用することで変容したのは基調音のみである。自分の耳をヘッドフォンでふさいだだけでは、街の景観は変容するわけはない。つまり、視覚の風景は変わっていないにも関わらず、音の風景の中で「基調」となるべき音だけが変わるという、ずれ現象がここで生じているといえる。基調音をマスキングすることで生じるサウンドスケープのワープ場所と、現実にいる場所がずれている。

素のままでいれば、基調音というのは、視覚で認識できる雑踏や車や店舗や草木などの存在があって、そこから発せられる音である。ランドスケープという土台からサウンドスケープが生じているのである。同一のランドスケープから、同一のサウンドスケープが導かれるというのが基本である。しかし、ヘッドフォンによって基調音を変えるということは、サウンド側からランドスケープ側へのアプローチをしているようなものである。たとえば、散歩に合う曲、雨上がりに合う曲、楽しい気分の曲、ランニングの元気がでる曲、人によって任意に様々な心象を再生する音楽に期待しているはずだ。るんるんとした気分の曲を流して街を歩けば、その人にとってその街は楽しいものに映るだろう。同じ街を歩いていても、テンポの速い曲を流す場合は、せわしない街に見えるかもしれない。同じ街、すなわち同じランドスケープ内に留まっていたとしても、サウンドスケープを個々の好みに合わせてチューニングするのがヘッドフォンの効果である。

だれもヘッドフォンをしないのならば、同一のランドスケープにいる全員が同じ基調音を聞き、そこから抱く周辺環境のサウンドスケープは似たようなものになりやすい。しかし、各自が任意のサウンドを流すことで、同じランドスケープ内においても、違うサウンドスケープを認識することになっていくのだ。ヘッドフォンのない世界では、あるランドスケープ内にいる人は同じサウンド共同体にいて当たり前だ。だが、現在は、とくに都市空間や街においてはそう言い切ることは難しい。

とはいえ、あるランドスケープ内にいる人全員がヘッドフォンをしているわけでもない。現代の街の空間では、ランドスケープとサウンドスケープが合致した人も存在すれば、ヘッドフォンによってランドスケープとサウンドスケープがずれて断絶した人もまた同時に存在している。合致した人からみれば、ずれて断絶した人々というのは異質な存在である。公共空間でのヘッドフォンに冷めた視線が向けられるのにはこのあたりに理由があるのかもしれない。同じ場所にいるのに、基調音が違うことが、イヤホンをする者への嫌悪感の原因なのだろう。共同体をねじられるのがいい気持ちがしないというのはわからなくもない。

良し悪しではない

街ゆく人がみな、ヘッドフォンをつかって「プライベートなサウンドスケープ」を能動的に形成しているわけではないが、その行為が珍しいものではなくなったのは確かだ。地理的共同体と音響的共同体のずれは、現代的な産業都市にみられるひとつの風景であるといえる。

さて、このように書いてくと、まるで街中の基調音に感受しない人々が浅はかな行動を取っているようにも思えてしまうが、むしろ逆で、その元々の基調音が酷過ぎるのではないかという問題点もあるといえる。シェーファーは「ローファイなサウンドスケープ」という言葉を用い、現代都市の状況を指摘した。超過密な音の中に、個々の音が埋もれて、方向性や距離間が薄れてしまっているサウンドスケープをローファイと呼んだわけだが、これはつまり、過剰なアナウンスやBGM、機械の駆動音が取り巻いているような状態である。たしかに、大音量、低音質、歪み、ハウリングが頻発する再生環境ばかりの街中では耳をふさぎたくなる気持ちも理解できる。

ランドスケープは違っても、サウンドスケープが近似する

さて、ヘッドフォンもしくはそれに類するモノで耳をふさぐ行為が、ランドスケープとサウンドスケープの断絶を起こすことだとしよう。しかし、たとえば街中で、ポータブル音声機器を用いて聴取するのは音楽だけではないだろう。何を聞いているか、つまりどんな音源を基調音化させているのかというのも、考えてみるべきだ。

音楽を聞いているならば話は単純で、音楽的な美麗さを持つ基調音を作ろうとしていると捉えられる。そしてそれは自分にしか聞こえていないプライベートなサウンドスケープだ。(音漏れしていたら、という問題もあるがそれはどちらかというとマナー論に話が近づいてしまうのでここでは、あまり触れないでおく。)

だが、たとえばラジオ(もしくはそれに類する放送音)を聞いていたとしたら、それはその人だけのサウンドスケープとは言いづらい。ヘッドフォンを使って、視覚と聴覚の断絶を起こしていることに変わりはないが、ラジオは聴取エリアという音響共同体を築いているメディアである。広範囲の中に、点々と同一で多数のサウンド共同体を形成している。その音は人の耳だけでは聞くことができないが、電波というかたちである意味で基調音を振りまいていると考えることもできる。ライブで聞いている限り、共同体があちこちに点在しているのである。しかし、聴取側はいったいだれが同じ共同体の住人なのかは知り難い。

またラジオとはいえ、聞き逃し放送やvoicyなどのラジオ風メディアは好きな時に聞けるのであるから、時間軸すら共有せず、基調音の音響共同体が世界のあちらこちらに点在することになるのであろう。

さらに、携帯電話などの1対1の音声通信であったら、プライベートではあるが、通信相手とは音響共同体を築いている状況と捉える事が可能だ。この場合は相手の声が基調音になっているといえよう。

まとめ

iPodやスマホに代表されるポータブル音声機器について「サウンドスケープ」の観点から考察した。それらを街中で使うことは、「サウンドスケープ」における「基調音」をマスキングしていることを意味していた。それによって引き起こされるのは、視覚と聴覚の断絶であり、同じ場所に属しているが、音響共同体は違うというずれが起きているのが現代都市の一風景である。

VR機器MR機器の発展によっては、視覚としてのランドスケープすら、近隣の者と断絶することが容易になることもありうるだろう。ただ、ぼくはそれが悲しいことだとは思っていない。人はそれぞれ同じものを見ているようで、欲しい情報は違うはずである。これまでは、大雑把に年齢、性別、といった属性で情報をゆるいゾーニングがなされていたのが、より個人に寄り添ったへと方向を変えるだけである。

今後、音声機器の音も、都市の音もなんらかの変化をしていくだろう。「サウンドスケープ」の対象はすべての音であるため、どこか一部分でも音の変容があればそこの「サウンドスケープ」も変わる。その変化が微々たるものなのか、大きなものなのかはそのたびに考えていかなければならないのが「サウンドスケープ」を考える上での課題である。

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参考文献

  • 岩宮眞一郎『音のデザイン―感性に訴える音をつくる―』、九州大学出版会、2007
  • 岩宮眞一郎『図解入門よくわかる最新音響の基本と応用』、秀和システム、2011
  • 小松正史『サウンドスケープの技法―音風景とまちづくり』、昭和堂、2008
  • 山岸美穂・山岸健『音の風景とは何か サウンドスケープの社会誌』日本放送出版協会、1999
  • R.マリー・シェーファー、鳥越けい子[ほか]訳『世界の調律―サウンドスケープとはなにか』、平凡社、1986
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